2008年12月18日

浦中 氏がんばってますよチーズと人の関わり

チーズと人の関わりがこんなに歴史深いなんて知らなかったです


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比較的保存がきく食品であることなどから、人類とチーズのつきあいは長い。

ホメロスのオデッセイアにはフェタチーズへの言及があり、古代インドの叙事詩「リグ・ヴェーダ」にはチーズを勧める歌が、ほかにプリニウスの「博物誌」やアリストテレスの著作にもチーズについての記述がある。 日本では飛鳥時代頃から乳牛の伝来と飼育が始まり、酪(らく)、酥(そ)、醍醐(だいご)と言った乳製品が作られるが、この「醍醐」がチーズのことを指すと言われ、「醍醐味」という言葉の起源にもなっている。また、推古天皇の時代には、地方ごとに作られたこの醍醐の品評会が行われたという話も残っている。

イタリア料理(パルミジャーノ・レッジャーノチーズやモッツァレラチーズ)やテクス・メクス料理(チェダーチーズ、モンテレージャックチーズ)など、チーズが欠かせない料理もある。

インドでは、ベジタリアンの割合が多く、一般的にインドのヴェジタリアンは動物の殺生の回避を目的としているため鶏卵も食べない。そのため多くの人が乳製品からタンパク質を補給し、フレッシュチーズのパニールを使った料理が豊富である。インド料理の菜食のメニューの半数程はパニールかダヒ(ヨーグルト)を使っている。地域によっては半数以上のレストランがヴェジタリアン専用で、ヴェジタリアン専用ではないレストランもメニューの半分以上は肉や魚介類を使用していないメニューである。

中国にも、チベットのヤクのチーズや、料理に用いられるルーシャンや大良牛乳などの特殊なチーズがある。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年03月05日

鳥の定義。

鳥類(ちょうるい)は、生物?動物?脊椎動物の区分の1つであり、鳥綱 (Aves) を構成するグループである。

二本足歩行をし、前足が翼に進化している。全身が羽毛に覆われており、恒温で、卵生である。鳥類は世界で約1万種弱が知られている。生息地は熱帯・温帯・寒帯・極地・乾燥地帯、及び海洋と、ほとんどすべての地域・環境に対応した種が存在する。鳥類には、ハチドリなど最小体重数gの小型種から、ダチョウなど最大150kgの大型種まで、さまざまな大きさの種が存在している。

なお鳥類の先祖は、恐竜(獣脚類)から分岐進化した説が現在では定説となっている。[1]。

日常語では鳥(とり)。

典型的な鳥類は、羽毛の生えた翼によって飛び、細くて歯が無いクチバシをもつ。前足は親指以外が退化し、表面に羽毛を生じる。後肢は歩脚型。尾はごく短い。全身の毛はいわゆる羽毛型になり、体表面を覆う。堅い殻のある卵を産卵し、新陳代謝が非常に良い。また、軽くて強い骨格をしている。クチバシを使って全身の毛づくろいをする。

体の構造について、詳しくは鳥類用語を参照。

鳥類は様々な食性に分けられるが、動物食もしくは種子・果実食が多い。草食は地上性の走鳥類などわずかである。これは空を飛ぶためには体重を極力低く抑える必要があるため、草食に適した長大な消化器官をもたないからである。また、飛行はエネルギー消費量が大きいために高カロリーの摂取が必要なためである。

動物食としては、地上の昆虫類・魚類・両生類・爬虫類・哺乳類・鳥類から水辺の節足動物・軟体動物・貝類など、体格・形態に合わせて、様々な環境において捕食者となっている。

植物食としては、種子類・果実類を対象とするものが多い。その他、ライチョウ等の花を食べるもの、淡水カモ等の水草や海草を食べるもの等がいる。

ダチョウ類は例外的に草食である。彼らは空を飛ぶことを放棄したため、体重の制限理由がなくなり、草食に適した消化器官をもつ。

また、鳥類は一般に昼行性が多いが、フクロウ、ゴイサギなど夜行性または薄明活動型(夕方に活動)の鳥類も少なくない。鳥類は全て鳥目と誤解されることが多いがニワトリなどを除いて、鳥類は夜間も視力をもつものが多い。
(以上、ウィキペディアより引用)

飛べるってすごいですよね。。

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2008年02月24日

魂の意味と分析心理学の成立

このような発見がこんな重要な役割を果たしていたんですね。
日々生活できることに感謝です。

精神医としてのユングと精神医学
カール・グスタフ・ユングは、フロイト(1856?1939)をはじめとする精神分析学の心理療法家たちとは異なり、当時いまだ発展途上にあった精神医学の研究者であった。精神医学の課題は、人間の精神つまり心(魂)に起こる、変調あるいは病を研究し、身体医学において成功したように、病よりの治療法を確立することが大きな目標としてあった。

しかし、精神の病とは一体何なのか。古代ギリシアにおいては、てんかんは神のもたらす神聖な病だと考えられていたが、近代ヨーロッパはそのような見方を否定した。とはいえ、それでは「てんかん」とは何で、どのような原因で起こるのか、理解していた訳ではない。広義に「狂気」とは何なのかが、定かでなかったと言える。

現象的あるいは症状的に精神の障害を記述し、分類を試みたのはクルト・シュナイダー(1887?1967)であり、シュナイダーの方法は、今日でもアメリカ精神医学会(APA)が定める DSM において症状記述として継承されている。

シュナイダーより半世紀前に、精神の障害・異常あるいは病の系統分類で画期をもたらしたのは、ドイツの精神医学者であるエミール・クレペリン(1856?1926)であり、彼は19世紀末、「早発性痴呆 (dementia praecox,1893年)」の名で精神分裂病(統合失調症)を定義し、躁鬱病や神経症とは根本的に何かが異なることを明らかにした。

スイスのオイゲン・ブロイラー(1857?1939)は、クレペリンの疾病概念をほぼ継承しつつ、精神が有機的な要素の連合として機能しており、この連合が何かの理由で乖離・分裂するとき、早発性痴呆の症状が生じるとし、早発性痴呆は必ずしも、「早発性」ではないことも考慮した上で、これを「精神分裂病群 (Schizophrenien)」と名づけた(1911年)。

ブロイラーは分裂病が、単一の精神疾患ではなく、機制の異なる複数の疾患の総称(症候群)である可能性を主張しており、複数形で表現した。後に、単数形で Schizophrenie と書かれるようになる。現代の知見においても、統合失調症(精神分裂病)は単一の精神疾患ではなく、複数の疾患か、更にそれらが輻輳したものであるとの考えが有力である。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉祥寺 デリヘル嬢 中窪 は、今日こんなことを考えました
4027 エステ 前橋 さんはブログを始めました。
2827 十時 のごく個人的な意見
3127 松家 のごく個人的な意見
3427 真崎 のごく個人的な意見
3728 脱毛 西海 氏がんばってますよ
4028 脱毛 前坂 氏がんばってますよ
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2008年01月31日

関屋分水

新潟県のある場所です!

関屋分水(せきやぶんすい、関屋分水路)は、新潟県新潟市を流れる信濃川の分水路。中央区(右岸、東側)と西区(左岸、西側)の境界を流れる。
河口から約10kmほど上流の平島(へいじま)地区から分岐し、関屋地区を抜けて日本海に至る、全長約1.8kmの分水路。1972年に開通、通水が開始された。
信濃川の分水路としては既に1920年代時点で大河津分水が開通していたが、より下流に分水路を開削する構想は江戸時代後期からあったと言われている。つまり信濃川が氾濫した場合には大河津分水だけでは処理できないということが予想されていたことになる。

1911年には西蒲原郡の排水を改良する為に小さな堀(関屋掘割)が作られたが、これは現在の関屋分水に近いルートを辿っていたとされる。やがてこの堀はいつしか痕跡もなくなってしまった。

その後も信濃川下流域では度々増水災害があり、最下流の新潟市も昭和に入ってから構想を練っていた。太平洋戦争によって構想は中断するが、1960年代に入ってから改めて分水事業を検討するようになり、新潟県、建設省北陸地方建設局(現・国土交通省北陸地方整備局)等との交渉の結果、1964年に国庫補助による県事業として工事に着手されることが決定した。

しかし、同年6月に起きた新潟地震の影響で、県事業として行うことが困難になり、1965年に建設省直轄事業として工事が再開された。

分水部の信濃川には信濃川水門を建設し、日本海からの海水逆流による塩害を防止する為に新潟大堰を建設、水量調節を図っている。掘削土は同時期に建設が始まった新潟バイパスの盛土として有効利用された。1970年頃からは分水開通によってこれを横断する必要のある国鉄越後線や国道116号、国道402号などの橋脚工事が始まり、1972年に完成した。1965年度以降の総工費は約160億円。

洪水時の氾濫から新潟市を守る目的で開削されたものであるが、その後1978年に信濃川下流域が大洪水になった際には早速その威力を発揮した。2004年の7・13水害の際にも洪水の大半を放流しており、企図した治水対策機能を実証している(ちなみに関屋分水の計画高水流量は毎秒3200立方メートルである)。また新潟西港への土砂堆積の防止にも役立っており、海岸侵食対策にも貢献している。
工事箇所となる新潟市関屋地区は、当時から市街地の西端で人口が多かったため、立ち退きも大きな問題となった。

そこで当時関屋地区にあった新潟競馬場の用地を、立ち退き住民の為の住居用地に当てることで、用地補償問題に決着をつけた。

これに伴い1964年に新潟競馬場は豊栄市笹山(現新潟市北区笹山)に新築移転している。

現在「関屋競馬場」とも言われた面影は現在は殆どなく、付近の公園にある石碑と、越後線関屋駅近くにある「競馬場踏切」や「競馬町マーケット」という集合商店(以前は食料品店(八百屋)や靴修理店や洋品小物店などの複数の店舗があったが、最後まで営業していた食料品店も2007年6月での閉店した為、現在は建物のみが残っている状態である)の名称などにその名残を留めているだけである。

中央競馬・新潟競馬場で毎年夏に行われる重賞(GIII)関屋記念は、現在の新潟競馬場の前身である関屋旧競馬場を記念したレースである。
(以上、ウィキペディアより引用)

競馬場は昔ここにあったんですねー。

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2007年12月21日

歴史上有名な人物らしいですが…

初めて聞きました。。

トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588年4月5日 - 1679年12月4日)は、イングランドの政治哲学者。近代政治思想を基礎付けた人物。

イングランド国教会の聖職者の子として生まれる。1588年、スペインの無敵艦隊襲来というニュースにショックを受けた母親は産気づき、予定より早く出産した。このため「恐怖と共に生まれた」といわれる。オックスフォード大学を卒業した後、キャヴェンディッシュ男爵家(のちのデヴォンジャー伯爵家)に家庭教師として仕える。ピューリタン革命で1640年からフランスへ亡命し、皇太子(チャールズ2世)の家庭教師を務める。最もよく知られる著作『リヴァイアサン』は亡命中に執筆し、1651年帰国の年に刊行された。ベーコンやガリレオ、デカルトらと交友があった。

1655年に円積問題の解を見つけたと公表し、数学者のジョン・ウォリスとの論争に発展した。ホッブズは終始この問題の本質を理解することができず、自分の解の誤りを認識できずに死ぬまで激しい論争を続けた。
(以上、ウィキペディアより引用)

きっと私が無知なだけですけど…。

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2007年12月10日

桜草の栽培

栽培の歴史がこんなに深いとは思っていなかったよ。


江戸時代の中ごろから、荒川の原野に野生するサクラソウから本格的な栽培が始まり、種子まきを繰り返すうちに、白、桃、紅、紫、絞りなどの色変わりや、大小さまざまな花形の変わり品が生まれ、名称が付けられた。やがて江戸時代後半になると品種数も非常に増え、文化元年(1804年)から新花を持ち寄り品評することが始まった。栽培者は旗本や御家人など武士階級が多く、「連(れん)」と呼ばれる2?3のグループが成立し、新品種の作出を競い合った。文化から天保(1804年?1844年)にかけてがもっとも盛んな時代であった。熱心な女性の愛好家もいて、寒天を流し固めた重箱に一品種ずつ挿し並べて鑑賞したという文献もある。幕末には各地に広まり、文久2年(1866年)にはサクラソウとしては現存最古の番付が発行されている。現在栽培される約300品種のうち、その半数が江戸時代から株分けで伝えられたもので、その花は多様な花型と繊細な花色が特徴で、他の多くの日本の伝統的な園芸植物と共通している。品種ごとに鉢植えで育て、花時には「花壇」と呼ばれる屋根付きの五段構造の展示台に配色よく飾る。鉢は「孫半土(まごはんど)」という、本来食品容器として作られた瀬戸焼の陶器が使われた。これはサクラソウのデリケートな花色をよく引き立てる。

愛好者層が武士中心であったので、明治維新前後には衰退の危機にも見舞われたが、やがて愛好者も増え、新花の作出も再び盛んになった。この頃に生まれた名花にも今に伝えられているものがある。やがて太平洋戦争により、サクラソウの栽培も下火になったが、戦後次第に復興し、昭和31年(1956年)に愛好者のグループである「さくらそう会」が発足、関西にも「浪花さくらそう会」が生まれた。この他全国各地に愛好会ができ、今に続いている。古典園芸植物を代表する存在の一つであるが、それに多い投機的植物のイメージを持たれるのを嫌い「古典草花」と呼ぶこともある。

欧米では植物としてのサクラソウの存在そのものは19世紀から知られ、日本から渡った園芸品種もわずかに栽培されていたが、平成2年(1990年)頃からようやく園芸文化としてのサクラソウが紹介され始めた。平成4年(1992年)にはアメリカで国際プリムラシンポジウムが開催され、世界中からサクラソウ属植物の愛好家、研究者が集まったが、この際に初めて海外に日本のサクラソウ文化が本格的に知られることになった。現在ではアメリカにも愛好会が誕生している。

なお、サクラソウとほとんど同じ時代に、イギリスでもサクラソウ属の植物であるオーリキュラ(Auricula, P. x pubescens)が、カーネーションやチューリップなどと共に育種されて多くの品種が作り出された(これらイギリスの古典的園芸植物をフローリスツ・フラワーと呼ぶ)。オーリキュラは愛好会や展示方法などにサクラソウとの類似点が多い一方、花の美はサクラソウと正反対の方向に改良されている。このサクラソウとオーリキュラの同時的歴史は、欧米のプリムラ愛好家たちにも興味深い史実として知られている。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年11月16日

恒温動物って?

すごい特徴的なんですね。大変興味があります。


恒温動物と言われる動物は、体内で熱を作り出し、体内の熱を外に逃がす機能を持つ。哺乳類・鳥類のほとんどはこれに属する。恐竜は爬虫類でありながら恒温動物だったと思われているが、体温調節機能が備わっていたのか、あるいは身体の巨大さによる慣性恒温に過ぎなかったのかという点で議論が分かれている。恒温動物の体温調節機能は恒常性の一例である。

一般に、恒温動物の体温は37-40℃と、気温に比べても高い温度で維持されている。この温度は、ほぼ酵素活性の最適温度であり、このような動物では、常に安定した体温の元、高い水準の活動能力を維持できることになる。ただし、そのためには、体表から逃げる熱を補うための熱を体内で作り続けなければならず、体温維持のためだけに多くのエネルギーが必要となる。つまり燃費がひどく悪くなる。従って、変温動物に比べて、遙かに多くの餌が必要となる。


恒温動物の出現と進化
現存する恒温動物は哺乳類と鳥類の二つのグループであるが、両者は極めて早い段階で分岐したグループあり(鳥類から見ると、哺乳類より現世は虫類の方が近縁である)、各々個別に内温性を獲得したと考えられている。

哺乳類に繋がる単弓類はペルム期の初期にはまだ内温性を獲得しておらず、エダフォサウルスやディメトロドンのように大きな帆を背中に発達させて日光を効率的に浴びて代謝を高めていたと考えられている。その後、ペルム紀中期?後期には内温性を獲得した種もあったとの説があるが、はっきりした事は判っていない。ただ、恐竜が出現するかなり以前の段階で、哺乳類の祖先が内温性を獲得していた可能性は高い。

鳥類系では、その祖先に当たる恐竜が恒温動物であったか否か結論が出ていない為、何時頃内温性を獲得したのかは不明である。ただ、最近になって羽毛を持つ鳥類と近縁の恐竜の化石が次々に発見されており、少なくとも鳥類の祖先となったジュラ紀の小型の獣脚類やその近縁種は内温性を獲得していたのではないかと推測されている。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)
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2007年10月25日

儒教の知らなかった話

以外に知らない儒教の事を調べてみました。

儒教の始祖、孔子儒教(じゅきょう)とは、紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に渡って強い影響力を持つ思考・信仰の体系である。その学問的側面から儒学(中国語: Rúxué! ?)、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。 中国では、哲学・思想としては儒家思想という。

東周春秋時代、魯の孔子によって体系化され、堯・舜、文武周公の古えの君子の政治を理想の時代として祖述し、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた。その教団は諸子百家の一家となって儒家となり、徳による王道で天下を治めるべきであり、同時代の武力による覇道を批判し、事実、そのように歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。その儒家思想が漢代、国家の教学として認定されたことによって成立した。


中国における展開

儒教前史
儒(じゅ)の起源については胡適が論文「説儒」(1924年)で「殷の遺民で礼を教える士」として以来、様々な説がなされてきたが、近年は冠婚葬祭、特に葬送儀礼を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。そこには死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)が関係してくる。そこで、東洋学者の白川静は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムを儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子であると主張している。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』

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2007年10月02日

バブル崩壊についての知識を深めましょう

バブル崩壊という現象は単に景気循環における景気後退という面だけでなく、土地や株の高値を維持した投機意欲の急激な減退、そして、政策の錯誤が絡んでいる。

1990年3月に大蔵省銀行局長 土田正顕(まさあき)(1936-2004) から通達された「土地関連融資の抑制について」(総量規制)日銀による金融引き締めは完全に後手に回った上に、信用崩壊のさなかにおいても金融引き締めは続けられ、経済状況を極度に悪化させた。前年に導入された消費税も景気に悪影響を及ぼした遠因と考えられている。

誤った政策によって人為的に資産としての土地の価格を下落させたとする視点から、政策判断のミスが引き起こした財産権の侵害であると主張する声もある。

日経平均株価は1989年の大納会(12月29日)に最高値38,915円87銭を付けたのをピークに暴落に転じ、イラクのクウェート侵攻に伴ういわゆる湾岸戦争と原油高や公定歩合引き上げが起こった後の1990年10月1日には一時20,000円割れと、わずか9ヶ月あまりの間に半値近い水準にまで暴落した。その後を追うように、これまですこぶる堅調だった景気も1991年2月頃をピークに急速に悪化。そしてついに地価も同年秋頃に、路線価も1992年中頃をピークに暴落し、バブルは崩壊していった。それまでの熱狂的な景気は異常な投機熱、すなわちバブルであったことが明らかになり、ふり返って「バブル景気」と呼ばれるようになった。

「バブルの崩壊」は、あるとき一瞬にして起きた現象ではない。グラフ(各種指標)はある瞬間に最大値を取り、理論上、そこでバブル崩壊が始まったわけだが、それは単なる序章に過ぎない。バブル崩壊は、開始から数年間をかけて徐々に生じた過渡的現象である。現象の進行は地域や指標の取り方によっても異なり、例えばマンションの平均分譲価格を見ても、東京と大阪ではピークに約一年の差がある。東京でバブルの崩壊が発生し始めた時、大阪ではまたバブルが続いていた、とも言える。また北海道、東北、四国、九州など1992年から1993年頃まで地価が高騰していた地方都市もあり、俗に「バブルが弾けた」というが、あたかも風船やシャボン玉がある瞬間に破裂したかのような瞬間的な現象ではない

数値的に確認できる「バブルの崩壊」と、体感的な「バブルの崩壊」にも最大で数年程度のずれがある。データ上、バブルの崩壊は1991年10月ごろ始まったが、必ずしも誰もが直ちにそれを体感したわけではない。バブルの崩壊を経済学的現象ではなく深刻な社会問題ととらえるとき目安となる時期は1993年ごろであり、それまでは(事実としてバブル崩壊が始まっていたにもかかわらず)それを認識できずに楽観的でいたり、そうでなくても、まだ持ち直すかもしれないと期待していた人々がほとんどだったと見られる。ただし、経済政策の失敗によって1997年以降の景気が極端に悪化し、リストラや採用抑制が一層激しくなっているため、本格的に実害をこうむった1990年代後半?2000年代前半を特にバブル崩壊による景気悪化と振り返って捉えている人も多い。

しかしこのバブル景気は実際には高度経済成長後に起きた銀行融資の振替と1980年代の世界的ディスインフレが重なって発生した資産経済であり、高度経済成長によって積み重ねられたゆがみが生んだ景気である。1990年代はこのゆがみの修正に費やされ長い成長率低迷がおきることになるが、成長の時代になれた感覚はすぐには修正されなかった。

バブル経済時代に土地を担保に行なわれた融資は、地価の下落によって担保価値が融資額を下回る担保割れの状態に陥った。また、各事業会社の収益は未曾有の不景気で大きく低下した。こうして銀行が大量に抱え込むことになった不良債権は銀行の経営を悪化させ、大きなツケとして1990年代に残された。