2010年4月 8日
姨捨山
名称の由来は、一説には奈良時代以前からこの山裾に小長谷皇子(武烈天皇)を奉斎する部の民「小長谷(小初瀬)部氏」が広く住していたことによるらしい(棄老伝説によるものは後述)。この小長谷部氏の名から「オハツセ」の転訛が北端で長谷(ハセ)の地名で残り南西部に「オバステ」で定着したものとされている。奈良県桜井市初瀬町にある長谷寺に参詣することを「オハツセ詣で」と言われるのと一脈通じている。なお、仁徳天皇の孫とされる雄略天皇や聖徳太子の叔父に当たる崇峻天皇など複数人が初瀬(泊瀬)の皇子と称されている。
標高は1252メートルで、長野盆地南西に位置する。「田毎(たごと)の月」として知られるほど棚田に映る月が美しくみられる場所として古くから知られる。国の名勝に指定、重要文化的景観に選定されている。
千枚田とも言われている田毎に月を映す多くの棚田が形成されるようになったのは江戸時代からとされているが上杉謙信が麓の武水別神社に上げた武田信玄討滅の願文に「祖母捨山田毎潤満月の影」とあり永禄7年には既に知られていたと考えるのが相当である。なお、山から見下ろす景観全てが甲越両軍の12年にかけて5度戦った川中島の戦いの戦場であった。
この地の月に関する初見は『古今和歌集』(905年)であり、以来「オハステ」は平安貴族や文人達の憧れの地名となった。これより古い『万葉集』(759年)には眼下の千曲川に関する歌は数首見られてはいても、月にも姨捨に関しても触れた歌はない。
山頂には冠着神社を祀るトタン屋根の祠と鳥居がある。この神社の祭神は月夜見尊と言う。
棄老伝説
姨をこの山に捨てた男性が、名月を見て後悔に耐えられず、翌日連れ帰ったという民話より名がついたともされる。日本各地には様々な棄老の風習が民話や伝説の形で残っており、『今昔物語集』や『大和物語』にも棄老にまつわる話がでてくる。しかし棄老伝説は古代インド(紀元前200年頃)の仏教経典『雑宝蔵経』の説話に原点があるとされている。日本の古代法制度下では20歳以下の若年者、60歳以上の老齢者や障害者には税の軽減など保護がされていて、法制にも棄老はない。このため、個人的な犯罪行為か、村落という狭い共同体における掟であったのか歴史研究家によって見解が分かれる。しかし、それぞれの物語で親を棄てなければならなかった人間に同情的な描き方がされていることから、貧しい農村では口減しのための「必要悪」として容認されていた地域があったのかもしれない。なおいくつかある棄老伝説における姨捨山は長楽寺境内の姨岩のことだと語られている話(学説ではない)もある。
史実には『続日本紀』に東大寺大仏殿竣工から10年目、鑑真没後5年目に当たる年(768年)、朝廷から褒美を得た全国9人の内信濃国は4人の名が上げられていて、その内の更級郡の建部大垣が親孝行を理由とされている。ちなみに他の3人は伊那郡の未亡人他田部舎人千世売が貞節を理由として、また水内郡の友情に篤い刑部智麻呂と、同じ水内郡の他人の税を肩代わりした倉橋部広人とが各々の善行を賞されている。大和物語集によって信濃の姨捨伝説が知られるようになったのは、この180年余も後のことである。大垣の受賞の噂話に棄老を戒める仏教の説話が物知りによって付け加えられて姨捨伝説が定着したものと考えられる。全国各地に国分寺が建設され仏教が勢いを持って広まっている時代背景とも重なっている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
長野県千曲市と東筑摩郡筑北村に姨捨山はあります。
- Permalink
- by
- at 12:26